「それ」の抑止力

いつもいつもネタ元が同じで恐縮ですが。。。

http://blog.tatsuru.com/2010/05/28_1008.php

勿論大メディアがこんなコトを書けるとは思えないケド、どーして誰もこういう話を書けないんだろう。

続編。

今回は内田先生、本気ですね。

http://blog.tatsuru.com/2010/06/01_1216.php

http://blog.tatsuru.com/2010/06/02_1032.php

http://blog.tatsuru.com/2010/06/03_0843.php

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”事実を知れば自己嫌悪に陥るとき、私たちは自分自身についてさえ偽りの言明を行うことがある。それは人性の自然であるので、それを咎めることは誰にもできない。けれども、散文的な言い方を許してもらえば、自己欺瞞が有用なのは自分を偽ることによって得られる「疾病利得」が、適切な自己認識のもたらす自己嫌悪の「損失」を上回る限りにおいてである。疾病利得は「自分が詐病者であることを知っている」という「病識」の裏づけがある限りかなり長期に維持できる。けれども、自分を偽りながら、かつそのことを忘れた場合、それがもたらす被害は疾病利得をいずれは上回ることになる。私たちはもうその損益分岐点にさしかかっているのだと思う。今回のマスメディアの「集団的思考停止」は私たちがすでに損益分岐点を一歩超えてしまったことのおそらくは徴候である。”

民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。誰も変化を求めていない。”

”もう何度も書いていることだが、私たちの国が陥っている窮状は構造的なものであり、つよい惰性をもっている。日本の不調を統治者個人の属人的な能力で説明することには限界があるし、その人がどのような政治的キャリアであるかということと彼がこれから行う政治的選択の適否のあいだにも十分な相関関係はない。メディアや政治学者の仕事はなによりもまず、統治者に意志があれば実現可能であるのは「どこまで」で、どこから後は個人的な善意や願望だけでは簡単には実現しない構造的な問題であるか、その境界をあきらかにすることではないのか。統治者を評価するときには、まず「意志があれば実現可能」である政治課題の成否について吟味し、「善意や願望だけではどうにもならない」構造的な問題についての評価は「別のスケール」で考量すべきだろう。けれども今のメディア知識人たちにはあきらかにそのようなスケールの使い分けをする能力が欠如している。彼らの今回のできごとについての総括は失政の責任は「鳩山由紀夫」という個人の無能に帰し、新政権のまずなすべきことを「小沢一郎」という個人の排除だとしている。だが、前政権が露呈させたのは、「日本は主権国家ではない」という「根源的事実」と、官僚とメディアがその事実を組織的に隠蔽してきたという「派生的事実」である。”