教育基本条例について

いつもの内田節、炸裂です。(殊に教育についてはうるさいです。当たり前ですが。)

http://blog.tatsuru.com/2011/08/22_1258.php

彼の論理はいつでも判り易いのですが、今回のものについては若干引っ掛かったので、検証してみましょう。

社会的共通資本=「共同体の存立に必要不可欠のもの」は、専門家による専門的な管理運営にゆだねるべきものであって、そこに政治と市場は関与してはならない。何故か?

子供たちは、いま学校の教師からも親からも塾の教師からもメディアからも、勉強するのは、自己利益の増大のためだと教えられている。同学齢集団の仲間を蹴落として、相対的な優位に立てば、社会資源の分配において有利になると教えられている。いい大学に行き、いい企業に入り、いい地位に就き、いい年収を獲得するために勉強するのだと教えられている。それが常識だと思う人もいるかも知れないが、これは一つのイデオロギーである。私たちの社会において支配的になったイデオロギーである。そして、このイデオロギーは、そのような単純な思考と規格化された欲望をもつ労働主体と消費主体の大量供給を切望するマーケットの要請によって生まれたものである。

①政治イデオロギーは(維新の会が典型的にそうであるように)徹底的な上意下達の組織を作り上げ、すべての社会成員が上位者の顔色をうかがい、報償を求め、処罰を恐れる「うつろな人」(hollow men)であることを願う。

グローバル資本主義は、すべての労働主体に対して、同じような能力を備え、それゆえ容易に査定可能、格付け可能であることを求める(そうすれば労働条件を限りなく切り下げることができるからである)。

③消費主体としての社会成員に対しては、同じような欲望をもち、同じようなライフスタイルを送り、それゆえ市場が用意する同一商品にあらそって群がる人間であることを求める(そうすれば最低のコストで最高の利益を上げることができるからである)。

つまり政治イデオロギーも市場も、どちらも社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない。社会成員が幼児的であり、利己的であり、模倣的であり、「うつろ」であることはそうでない場合よりも政治家と資本家に多くの利益をもたらすからである。即ち、政治イデオロギーと市場は積極的に「大人」を育成しない方向に寄与する。

これに対して、社会的共通資本としての学校の目的はただ一つ、「集団を支える成熟したメンバーを再生産する」こと、要するに「大人を作り出す」ことである。
「大人」とは、「公民」即ち「公共の福利を自己利益よりも優先的に配慮する人間」のことである。(マルクスはかつてこれを「類的存在」と呼んだ。孔子は「仁者」と呼んだ。)そのようなふるまいをする人物が一定数供給されないと、社会集団は維持しがたい。

このまま政治と市場の介入が進めば、学校の本質的機能は遠からず回復不能なまでに破壊されてしまうだろう。だが、「大人」を作り出す制度を失えば、そのときには、共同体そのものが壊滅してしまうのである。

うーん。後段はいいけど、前段はどうなんだろう?(政治も市場も、本当に「成熟」させない方向にのみ機能するのかな?)
また結論はちょっと飛躍し過ぎ?中国なんて、ここで言う政治と市場に席巻されてるけど、今の所共同体が壊滅してないんじゃない?