Who is to blame?

第2段

”システムをクラッシュさせた責任は「誰に責任があるのだ」と声を荒げる人間たちだけがいて、「それは私の責任です」という人間がひとりもいないようなシステムを構築したこと自体のうちにある。
行楽地で空き缶を捨てようときょろきょろしている観光客がいる。
どこにも空き缶が捨ててないと、しかたなくマイカーに持ち帰る。
一つでも空き缶があると、「やれやれ」とうれしげにそこに並べる。
そういう人間「ばかり」だから、空き缶一つをトリガーにして、あっというまにゴミの山ができあがる。
私たちの社会はそういうふうにできている。
何もないところにゴミを捨てる根性はない。
でも、一つでもゴミが落ちていれば、ほっとして捨てる。
公共の場所にゴミをすてることがシステムを「汚す」ネガティヴな行為であることはわかっている。
けれども、自分より先にそれをした誰かがいた場合には、その誰かに「トラブルの起源」を先送りすることができる。「私が来るより前から『こんなふう』だったんです。私はトラブルの起源ではありません」というエクスキュースが通るとわかると、どんなひどいことでもできる。
それが私たち日本人である。
最初の空き缶をとおりがかりの誰かが拾えば、それでゴミの山の出現は阻止できたのである。
だが、「なんで、オレがどこの誰だかわからないやつの捨てたこきたねえ空き缶を持ち返らなきゃいけないんだよ!」と怒気をあらわにすることが「合理的」であるという判断にほとんどの人が同意するがゆえに、「一個の空き缶」で済んだものがしばしば「ゴミの山」を結果するのである。
社保庁でも事態は同じであったろうと思う。
ミスは40年以上前から指摘されていたそうである。
そのときの社保庁の人間は「前任者のしたミスの後始末をなんでオレがしなくちゃいけないわけ?」と思った。
そして、自分のこの判断は「合理的」であり、国民の過半はこの判断に同意してくれるだろうと彼は信じたのである。
他人の犯したミスを「私の責任でただします」というようなことを社保庁はその吏員に求めていない。
社保庁だけでなく、日本的システムは総じてすべてそうである。
いったん事件化したあとになって「誰のミス」であるかを徹底究明することには熱心だが、事件化するより先に「私の責任」でミスを無害化する仕事にはほとんど熱意を示さない。
システムは放っておけばかならずどこかで不具合を起こす。
この不具合がもたらす被害を限定するためには二つの方法がある。
「対症」と「予防」である。
「責任を徹底追求して、二度とこのような不祥事が起こらないようなシステムを構築します」という考え方を「対症的」という。
「二度とこのような不祥事が起こらないシステム」などというものは人間には構築できない。
不祥事を阻止できるのはシステムではなくて、その中で働く固有名をもった個人だけだからである。
ここにミスがある。誰が犯したミスだか知らないけれど、放置しておくといずれ大きな災厄を招きかねない。だから、「私の責任において」これを今のうちに片付けておこう。
そう考えるのが「予防」的な発想である。
「予防」はマニュアル化できない。
というのはマニュアルというのは責任範囲・労働内容を明文化することであるからであるが、ミスはある人の「責任範囲」と別の人の「責任範囲」の中間に拡がるあの広大な「グレーゾーン」において発生するものだからである。
誰もそのミスを看過したことの責任を問われないようなミス。
グレーゾーンにはそのようなミスが構造的に誕生する。
「それは私の仕事じゃない」
これがわずかなミスを巨大なシステム・クラッシュに育て上げる「マジックワード」である。”