「父権制」イデオロギー

内田センセの旧いブログから素敵なモノを発見したので、備忘的に記録します。

”「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。
なぜならどのような「システム」にもその機能の全部をコントロールしている「責任者」などは存在しないからである。
「システムを全部コントロールしているもの」というのは、自分が被害者である以上どこかに自分の受苦から受益しているものがいるに違いないという理路から導かれる論理的な「仮象」である。
これを精神分析は〈父〉と呼ぶ。
〈父〉がすべてをコントロールしており、〈父〉がこの世の価値あるもののすべてを独占しており、「子ども」たちの赤貧と無能・無力はことごとく〈父〉による収奪と抑圧の結果であるというふうに考える傾向のことを「父権制イデオロギーと呼ぶ。
その点ではマルクス主義フェミニズムも「左翼的」な「奪還論」はすべて「父権制イデオロギーである。
父権制イデオロギーは当たり前であるが、父権制を批判することも、もちろん父権制を解体することもできない。
〈父〉を殺して、ヒエラルヒーの頂点に立った「子ども」はそのとき世界のどこにも「この世の価値あるもののすべてを独占し、〈子ども〉たちを赤貧と無能・無力のうちにとどめおくような全能者」が存在しなかったことを知る。
どうするか。
もちろん自ら〈父〉を名乗るのである。
そして、思いつく限りの収奪と抑圧を人々に加えることによって、次に自分を殺しに来るものの到来を準備するのである。
というのは、彼または彼女が収奪者・抑圧者〈父〉として「子ども」の手にかかって殺されたときにはじめて、彼または彼女は〈父〉が彼らの不幸のすべての原因であったという「物語」が真実であったことを身を以て論証することができるからである。
〈父〉を斃すために立ち上がったすべての「革命家」が権力を奪取したあとに、〈父〉を名乗って(国葬されるか、暗殺されるかして)終わるのは、〈父〉の不在という彼ら自身が暴露してしまった真実に「子ども」である彼ら自身が耐えることができなかったからである。
父権制社会」を創り出すのは父権制イデオローグであり、彼らはみな「子ども」であり続けようとしたせいで不可避的に〈父〉の立場になってしまうのである。”