労働について

内田先生2連発。

”どういう行為が「働く」ことであり、どういう行為がそうでないのかは、働き始める前にはわからない。働いて何かを創り出した後に、それを「欲望する」他者が登場してきてはじめてそれは労働であったことが遡及的にわかるのである。そういうふうに労働は時間の順逆が狂ったかたちで構造化されている。”

”働く人が、誰に、何を、「贈り物」として差し出すのか。それを彼に代わって決めることのできる人はどこにもいない。贈り物とはそういうものである。誰にも決められないことを自分が決める。その代替不能性が「労働する人間」の主体性を基礎づけている。
その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働しているのである。
今、若い人たちがうまく働けないでいるのは、そのことに気づいていないからだと思う。彼らは「働くとはどういうことか」についての定義があらかじめ開示されることを求める。働くとどういう報酬が自分にもたらされるのかをあらかじめ知りたがる。それが示されないなら、「私は働かない」という判断を下すことも十分合理的だと考えている。けれども、残念ながら、「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。”