フレームに関する論考

たまたま「フレーム」というキーワードに関する小幡/池田両氏のブログがあったので。

http://agora-web.jp/archives/1345696.html

”人間はフレームワークの変更や世界間の移動に対しては、合理的でない不安を持つのである。”
放射能のリスクについて考え、それをコントロールし、うまく付き合うというのは、現時点では別世界なので不安すぎる。ところが、もし停電が頻発し、節電により冷房を止めていて熱中症で老人が死亡したというニュースが頻繁に聞かれるようになると、その反動で、原子力発電所は安全だということを信じたいという方向に移るかもしれないが、そのときもリスクコントロールするということではなくて、存在に目をつぶっていられる状況に移行することを求めるのではないか。”
”たとえば、電力会社に任せるのは不安だから、国が責任を持つことにすればいい、賠償も今後は国で行うことにすれば安心だ、という議論になる可能性はあり、それでは事故のリスクを減らしたことにはならないのに、人々は元の世界、原子力発電者の存在を気にしなくていい状態に戻って安心するのではないか。”

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51719259.html

”政治的な論争では、同じフレームの中で細かいデータの正否が争われることは少なく、むしろ異なるフレーム同士の通約不可能性がデッドロックになることが多い。日本で経済学者が相手にされない原因は、彼らが学界の中で共有しているフレームが一般社会で通用しないからだ。個人が「完全情報」をもとに合理的に行動するという新古典派の仮定は、カントの否定した形而上学である。”
イノベーションも本質的にフレーム転換であり、フレームを濃密に共有する日本型組織の特徴が破壊的イノベーションを阻害している。それを政府が業者の「懇談会」で調整することは、かえってイノベーションを殺す結果になる。”