心情倫理と責任倫理

池田信夫氏のブログから

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51503469.html

心情倫理とは”その動機がいいか悪いかという倫理で行動すること”だと。
但し”政治は軍や警察という暴力装置を使って目的を達する以上、心情倫理で行動することは許されない。”崇高な理想が(ロシア革命のように)最悪の結果をもたらすこともあれば、下賤な欲望が繁栄をもたらすこともある。”故だと。

http://blog.goo.ne.jp/koukiseijyu/e/91a2b2b8c34324612caa3b34614a2e8e

newportさんのブログでは、心情倫理とは”目的による手段の正当化に陥りがち”とし、”小学校以来、さんざん聞かされてきた、「悪気はなかったから」、「一生懸命やったんだから」といったような典型的な「心情倫理」的な正当化”するもの、と書かれている。ちょっとどーかなー。

はてなキーワードによると以下の通り。
”かつてマックス・ウェーバーという社会学者が心情倫理と責任倫理とを区別した。前者は自らの心情に忠実に行動する倫理であり、後者は自らの行動の影響を考慮して行動する倫理である。前者においては心情の純粋さの程度で倫理性の程度が左右され、後者においては行動の結果への配慮の程度で倫理性の程度が左右される。この2つの倫理を区別したウェーバーは、政治家に求められるのは心情倫理ではなく責任倫理だと言っている。政治家にはなぜ責任倫理が求められるかと言うと、彼が心情の赴くままに行動すれば、その行動の影響が普通人よりもはるかに広い範囲に及ぶからだ。それゆえ政治家は自らの心情の表出に禁欲的でなければならないのである。そうでないと国民に迷惑が及ぶ。”

http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-09-24

古井戸さんのブログでは、こう記述されている。
”心情倫理とはなにか? 理想に基づく政治的行為。主観的といってもよい。
責任倫理とはなにか? 理想はどうでもよい、結果責任を政治家は問われる。”
どーでもよいとは言ってないでしょ?

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/06/post_49b6.html

renqingさんのブログでは、「心情倫理」は誤訳でありニュアンスとしては「信条倫理」の方が正しいのでは無かろうかと。説得力ある。多分、この誤訳が多数の誤ったフォロワーを生み出している気がする。


その他「心情倫理」でネットサーフィンすると、色々珍解釈が出てきます。

ヴェーバー責任倫理と心情倫理の理念型は有名である。心情倫理があるルールに従おうとするのに対して、責任倫理は結果に責任を持とうとする。ヴェーバーは政治における責任倫理の重要性を指摘したことで有名である。しかし、社会の不確実性が高くなると、ある行為の結果の予測がますます困難になる。そうすると、厳密には、責任倫理を果たすことが困難な状況が出てくるようになる。だからといって心情倫理に寄りかかるだけでは、こころもとない。語の厳密な意味で結果に責任を負うことはできないが、できるだけよい結果を得るために最善の行為をすることを要請するような倫理を考えることができるのではないだろうか。これを最善倫理と呼ぶならば、最善倫理は、責任倫理と心情倫理の中間に位置づけられるかもしれない。つまり、結果に志向するが、完全に結果には責任を持たない。むしろあるルール、ないしはプロトコルにしたがって、その範囲内で最善をつくすのである。”
こりゃー「責任倫理」を誤まって解釈している感じ。

”「心情倫理」とは、自分の純粋な心情から発した行動の結果が悪くても、その責任は自分にあるのではなく、他人や世間にある と考えること。最近の例として、
①福田前総理「私とあなたたちとは違う」・・・独善性を表現した
星野監督 「我々は一生懸命にやった。あとは国際ルールが、審判が・・・」
一方の「責任倫理」とは、自分がどのような心情で行動をとったかではなく、それによって生じた結果の責任を受け止め、他人に責任転嫁しない人”
こりゃまた随分飛躍してますなー。

”私たちは、心情倫理よりも、マックス・ウェーバーの言う責任倫理の方を好む。これは、行為の予測可能な結果にも留意しつつ、それでいて原理を放棄しない(原理を放棄すれば倫理ではなくなる)倫理である。善意が災いを惹き起こすこともあるし、動機が純粋であれば最悪の事態が避けられるというわけでもない。だから、心情倫理で事足れりとするのは非難に値する。責任倫理は、私たちがみずからの意図や原理にだけでなく、予測できる範囲でみずからの行為の結果にも責任をもつことを要求する。これこそが思慮深さにかなった倫理であり、価値ある唯一の倫理である。”
概ね正しいと思うケド、「私たちは。。好む」とか「価値ある唯一の倫理」とかの書き振りが嫌ね。

責任倫理という概念が、ウェーバーにはあります。しかしこれは、日本( 特にその政界 )では誤解されがちな概念です。責任倫理が、結果・目的のためなら手段を選ばなくてもよい、という政治家へのフリーハンドを与える概念だとして、誤解されているのです。実際はそうではない、というのが著者の主張です。では、本来の責任倫理と心情倫理とはどのようなものか(226,7頁)。ウェーバーによると、心情倫理というのは、自分のよき心情のままに行動せよ、と命じる概念です。その結果、行為者は手段に頓着しなくなってしまいます。それは、意図や目的のためなら、暴力をも正当化して、辞さないものです。意図や目的のためなら手段を選ばない、というのは心情倫理の方です。それに対して、本来の責任倫理は、あらゆる結果に対して行為の責任を問うものです。それは、その責任の重さゆえに、手段の選択と行使に縛りをかけます。身動きが取れなくなるのです。政治家は、手段によって生じる結果に配慮することになりますし、だから行為は縛られます。それでもなお、なんとか進む道を見つける。これがウェーバーの求めた責任倫理なのです。フリーハンドどころか、むしろ拘束具のような存在が、責任倫理です。”
??何だか、かなり話が撚れてる感じがしますが。。。

ウェーバー自体が、峻別すべき”駄目”な倫理として取り上げる「心情倫理」についてあれこれ言ってもしょーがない気がする。(だって、彼の定義がよく判らんのだもん。)「責任倫理」についてだけは、或る程度イメージが湧いた気がする。